平成28年度活動報告

 移動研修
 上総のお寺巡りと房総浮世絵美術館鑑賞 レポート
 


近隣の史跡、施設等の見学により会員の周辺地域に関する知識・知見の向上を目的に、
今回は上総(いすみ市、長南町)の歴史あるお寺をめぐり、彫刻や美術を鑑賞しました。

日時 :平成28年6月29日(水)   参加者: 29名

以下に参加者 杉本清隆さん感想文に写真を添えて、小山田光成さんの行元寺の歴史秘話と共に研修レポート致します。

 

房総移動研修

 杉本 清隆   

 まさに梅雨の晴れ間の一日、かつて上総と言われた いすみ市長南町の天台宗 名刹三寺と長生郡長柄町の房総浮世絵美術館へ、一般参加の方も加わり、バスで移動研修を行いました。

 まず最初に東頭山行元寺(ぎょうがんじ)849年に慈覚大師により草創され、1586年に現在の地に移築された古い歴史があります。徳川家康らの庇護のもと十万石の処遇も受け徳川家との結びつきが強い寺でもありました。その証左として、東照宮にもない大きさの「葵の御紋」の彫刻も残されています。入母屋造り二層の山門、そして両脇に仁王像が安置されていました。

  同じ いすみ市の明王山飯縄寺(いづなでら)808年満蔵寺として慈覚大師により草創、現在の長野県の飯縄山に伝わっていた飯縄信仰から、飯縄大権現を祀り、江戸初期に飯縄寺と改めました。寺で最古の建築物である「仁王門」が私たちを迎えてくれました。神仏融合の寺で上野寛永寺直轄にもなり、江戸からの参詣も多く、1797現在の本堂が再建されました。

  同じ いすみ市の明王山飯縄寺(いづなでら)808年満蔵寺として慈覚大師により草創、現在の長野県の飯縄山に伝わっていた飯縄信仰から、飯縄大権現を祀り、江戸初期に飯縄寺と改めました。寺で最古の建築物である「仁王門」が私たちを迎えてくれました。神仏融合の寺で上野寛永寺直轄にもなり、江戸からの参詣も多く、1797現在の本堂が再建されました。

 「関東に来たら、波を彫るな」と言わしめた初代「波の伊八」は1752年、現在の鴨川市で生まれ、彫刻師となり、南関東中心50点ほどの作品を残しています。

 とりわけ、欄間彫刻が有名で、行元寺旧書院欄間彫刻の「波に宝珠」は「覗―のぞき画法」の手法で有名で後に北斎の「神奈川沖浪裏」のみならず、遠く世界は、ゴッホ、セザンヌ、ピカソなどの画に多大な影響を与えたと言われています。そして、飯縄寺の「牛若丸と大天狗」は、牛若丸と名乗って京の鞍馬で修業をした義経が、奥羽への旅の途中飯縄寺に立ち寄ったと伝えられていますが、「牛若丸と大天狗」は両者とも今にも、動き出しそうで、伊八の技術と魂が感じられました。                   

さて、次の大悲山笠森寺、784年に最澄が楠の霊木で十一面観世音菩薩を刻み山上に安置し、開基されたと伝えられています。総称、笠森観音とも言われる所以です。山上に聳え立つ観音堂は、1082年に建立されたものの、いったん焼失、1590年代に再建されたと言われています。
 61本の柱に支えられた観音堂は、「四方縣造」と言われる日本で唯一の建築様式で、国指定の重要文化財となっています。観音堂への75段の階段を登った回廊からは、房総の地が一望できました。観音堂の周囲の山は、国指定の天然記念物笠森寺自然林として保護されています。 

 さて、最後に訪れたのは、長柄町にある房総浮世絵美術館です。館長の津島さんが、昭和44年から約30年をかけ、江戸末期、明治、大正、昭和初期に、欧米に流出した浮世絵を、私財を投じ収集したものが展示されています。

 菱川師宣、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎などの作品も展示され、さらに歌川広重の東海道五十三次の傑作中の傑作とされる「庄野・白雨」などの超名作も常設展示されているのです。庄野宿は、現在の三重県鈴鹿市の宿で、江戸から第四十五番目の宿場です。

「庄野・白雨」の白雨とは、急な夕立やにわか雨のことで、突然の風を伴った激しい雨の中、坂道を往来する人々の姿が生き生きと描写されています。館長の津島さんのご説明で、さらに絵の中の一人一人の暮らしぶりが浮かび上がるようで感動しました。 そして何よりも、強い風で揺れる遠景の竹藪を、輪郭線のない二重のシルエットにし、奥行きを感じさせ、降る雨の角度も変えるなど新たな技法にも成功していることに感心したりしました。

 

行元寺の歴史秘話

 

小山田 光成  

 今回の研修で最初に訪れた行元寺は上総国天台宗 昔日の隆盛を誇っており、見事な美術作品に満ちていました。これとは別に、わずか70年前に起こった歴史秘話がありました。境内に童謡「母さんたずねて」という歌碑があり、ある出来事から50年後の平成6年にこの碑の除幕式が行われました。歌の好きな私は歌碑建立の経緯を調べてみました。「母さんたずねて」の歌詞は昭和16年夏、成東町出身の斉藤信夫が家近くの寺で出会った巣立ちしたばかりの小雀を即興的に詩にしたもの。一方名コンビの作曲家 海沼実は、戦後散策中にたまたま行元寺を訪れ、学童疎開の話を聞き、これをモデルに作曲して音羽ゆりかご会の川田正子によって昭和22年に歌われました。

 先の大戦の終盤、マリアナ諸島が米軍に占領され、B-29などの爆撃が予想され、国策で学童集団疎開が行われていました。行元寺へは、東京都本所区(現墨田区)にあった外手(そとで)国民学校4年の女子児童約80人が昭和19年夏に疎開してきました。受け入れた寺側は大変だったことでしょう。地元の人々も疎開児童に好意的で、食料など交代で持ち寄り手厚く援助しました。

 昭和20310日の東京大空襲で、外手国民学校と多くの児童の家屋も消失してしまったのです。辛うじて逃げ延びた父母たちが児童たちに面会に来られましたが、その衣服の焼けただれた余りにひどい姿に、児童たちは泣くばかり、中には家族すべてを失った児童もいたとのこと。同校の6年生も近くの寺に同様に疎開していたが、卒業式のため帰京中だったため、大空襲でほとんどが非業の死を遂げたのでした。更に、本土決戦の危機が迫り、「九十九里に米軍が上陸するかも」という噂があって、昭和205月、学童たちは再疎開となり、行元寺からまさに逃げるように岩手県へ去ったそうです。その後はどうなったことでしょう。生存者は80歳以上で、いずれ忘れ去られるでしょう。彼女たちは正に歌詞の中にある「まいごの子すずめ」だったのです。どんな歌にも誕生にまつわる背景があり、その歴史秘話を知ることも、音楽の情操教育に必要だと思った次第です。