*** 平成25年度実施事業 ***

2023年

12月

17日

葵は枯れる、菊は咲く

知られざる大網白里市の郷土史異聞 川路聖謨妻高子の上総疎開

幕末異聞  

   大網白里市国際交流協会

   元副会長 中國健二郎

 

当地、大網白里はのどかな太平洋に面した人心も穏やかな農村地帯で、江戸時代は幕府や旗本の知行地がほとんどで、近くに大藩もなく、歴史的に中原に覇を争うような舞台となったこともなく、泰平に安眠を貪ってきた土地柄である。しかし、風雲急を告げる幕末末期、維新回天の騒乱の余波を受けて大網白里市にもささやかながら土地にまつわるこの地の人口に膾炙(かいしゃ)されることのないであろうエピソードを紹介したい。

 幕末期の錚錚英傑の一人川路 聖謨(としあきら)の妻高子が江戸城総攻撃を避けて上総の国山辺郡平沢村に疎開していたというのである。

川路聖謨は、佐倉藩主だった老中堀田正睦と日米修好通商条約の勅許を求めて上京し、また、ロシアのプチャーチンと日露通好条約の交渉を粘り強く行い締結させた外交官でもあった。

鳥羽伏見の戦いが始まると、緒戦から旧幕府軍は敗走し,上野寛永寺に将軍慶喜が謹慎しているにもかかわらず、官軍は慶喜追討に東海道、東山道(中山道、甲州街道)から江戸に攻め上ってきた。川路聖謨は、官軍江戸総攻撃の予定日を315日(慶応四年)と知り、妻子を次男の養子先である旗本原田市三郎の知行地である平沢村(大網白里市小中)の名主利右衛門の邸宅に疎開させた。聖謨は、徳川幕府終焉に殉じて315日に割腹し、病気で体が不自由であったためピストルで自決している。妻の高子も夫に畏敬の念を持っており、自分も後追いしたかったようであるが、川路家と幼い継子二人の養育を考え、短慮を慎み、気丈に夫の葬儀を済ませ、初七日に「末代まで操を守る」という決意を込めて「松操」と号して落飾した上で322日に平沢村に向けて出発した。

 当時の川路家の知行地は、秩父にあり、遠く行程が険しい上に、甲州街道と中山道に挟まれ官軍との接触の可能性から上総平沢村を選んだと思われる。余談だが、幕末きっての英傑日本近代化の父ともいえる小栗上野介は群馬県権田村の自分の領地に疎開帰農のため一家で移住したが、長男、家臣3名とともに烏川河原で官軍に取り調べもなく無残に斬首されている。

 平沢村(現小中)に疎開した高子は、約3か月小中で過ごし、徳川家存続と、江戸無血開城を知り江戸に帰った。その後17年生き、明治17年に胃がんにより死亡。教養ある武家の女性として、次のような辞世を残している。

 「いと長く思いしかども限りあるわが世の夢も今ぞさめぬる」

なお、 川路聖謨の辞世

 「天津神に背くもよかり蕨つみ飢えにし人の昔思えは」

蕨つみ飢えにし人とは古代殷、周の交代期、天道の是非を貫いた伯夷・淑斉兄弟の故事を暗喩して徳川幕府への恩義と忠節を迸(ほとばし)らせている。

 

2021年

7月

03日

2020TOKYO 五輪 聖火ランナーの大役を終えて

    

           

                  

                  大網白里市国際交流協会       

                  会 長 田村 隆文

                               

はじめに、新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない状況ですが、121日間をかけて全国47都道府県359市区町村を繋いだ「希望の聖火」を国立競技場の聖火台に灯して欲しいと聖火を繋いだ一人の人間として切に願っています。千葉県では新型コロナ感染防止のために公道を走ることが出来ませんでしたが、聖火ランナーとしてトーチキス(聖火ランナーが次の聖火ランナーに聖火を受け渡す)のセレモニーに参加する(大役を果たす)ことが出来たことに感謝の気持ちでいっぱいです。                               

令和元年10月、聖火ランナーとして本市の推薦を受け、12月に千葉県オリンピック・パラリンピック推進局より東京2020「千葉県推薦聖火ランナー」として選定されましたと連絡をいただきました。1225日(水)のクリスマスの日に東京2020組織委員会の聖火ランナーデスクより、「東京オリンピック聖火ランナー」に選ばれましたと連絡があり、私の生涯において忘れる事の出来ないクリスマスプレゼントになりました。                                         

前回の東京オリンピック(1964年)は、大学2年の19歳の時で聖火が国立競技場の聖火台に点火される光景を近くの電気屋さんの白黒テレビで大勢の人々と目にしましたが、大会に合わせて高速道路や鉄道網の整備により、東京の街並みもすっかり変わり、ギリシャから南回りで国産初の旅客機YS11型機により空輸されて日本に到着して国内を聖火ランナーによって繋がれた聖火は、日本の戦後復興の象徴のように感じたのを今でも鮮明に覚えております。                         

前回の東京オリンピックから57年を経過して私も高齢となりましたが、東京2020聖火ランナーとして大任を背負って走る以上は、日常の生活行動と体力の維持にも気を配らなければならないと思いました。幸いにもアリーナのジムで週3-4回筋トレと有酸素運動のエクササイズを約8年間続けてきていましたが、ランニングの練習も併せて少しずつ始めました。                                    

 然しながら、突然、令和2年の2月頃から新型コロナ感染が急速に拡大し、3月には、WHO(世界保健機関)が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行を「パンデミック」と宣言し、感染拡大防止のための新しい生活スタイルの徹底を勧告したことから私達の日常生活も一変してしまいました。一方で、聖火は3月下旬にギリシャでの採火式を無事に終えて特別機で日本に空輸されましたが、東京2020オリンピック・パラリンピックも1年延期となり、また、4月からは緊急事態宣言の発令により新しい生活が始まりました。              

  令和3年3月になって千葉県オリンピック・パラリンピック推進局より、聖火リレーは3月25日(木)に福島県をスタートして千葉県では7月1日(木)から3日(土)の3日間実施することとなり、私は7月1日(木)19時過ぎ頃に蓮沼海浜公園付近を走ることとなったと通知がありました。また、走行2週間前の6月17日(木)からコロナ感染防止のために「体調管理チェックシート」による毎日の体温測定や健康状態を報告することとなり、また、当日の走行区域についても発表されて、いよいよ現実味が帯びてきました。                                     

  5月27日(木)に、千葉県オリンピック・パラリンピック推進局より新型コロナウイルス感染防止のために公道での走行は中止してセレモニー会場でのトーチキス等のセレモニーのみに変更となったと通知を受けて少し驚きましたが、感染防止のためであり、公道を走らない聖火ランナーとしてオリンピックの歴史にも無かった最初で最後の経験となる大役を果たせる事ができると思いました。                                               

 そして、遂に7月1日(木)の当日を迎えました。聖火ランナーのユニホームに着替えて緊張しながら待機しました。時間が来てこの地域を走る予定だった聖火ランナー全員がセレモニー会場に集まり、ランナーのトーチキスによって繋がれた聖火は希望の炎として輝いておりました。                    

 121日間の日程で全国を繋いだ聖火は、コロナ禍の「全世界の人々に夢と希望を与える聖火」として国立競技場の聖火台に灯してほしいと、そして、私は地域社会を支える一員として持続可能な多様性のある多文化共生社会の発展を目指すことを祈念しました。                                   

 聖火ランナーとして決定して以来、未だかって経験したことのないコロナ禍で翻弄された1年半の準備期間を終えて、無事に聖火ランナーとしての大役を果たせたことに感謝の気持ちと同時に1日も早い新型コロナウイルス感染症の収束を願っております。             

2021年

3月

05日

日中の架け橋(試験投稿)

大網白里市国際交流協会文化公演「李広宏リサイタル」資料より
大網白里市国際交流協会文化公演「李広宏リサイタル」資料より
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2021年

3月

04日

皇居二重橋(試験投稿)

皇居移動研修
皇居移動研修

左の写真は皇居の定番アングルである。誰でも一度は見たことがあるか、あるいは実際に見たことがあるはずの風景である。

ところで、あなたは二重橋を見たことがあるでしょうか?私は、写真の“眼鏡橋”のような橋が二重橋とばかり思い込んでいた。言い訳するわけではないが、“ステレオタイプの物の見方”でなく、明らかな誤謬である。この年になるまで、写真の2連の橋を「二重橋」とばかり思い込んで生きてきたことになる、実に浅薄を恥じ入る思いである。じつは、この橋は「正門石橋」と言い、この橋の奥にある「正門鉄橋」と呼ばれる橋が通称「二重橋」と呼ばれる橋であるという。私は、皇居を参観して初めてそのことを知ったのである。毎年、何万と訪れる皇居参賀に訪れる人は、この二連石橋とその奥の「二重橋」を渡り、宮殿に向かうのである。因みに、写真の櫓は伏見櫓と言い、京の伏見城から移築されたもので、江戸城の面影を想像できる数少ない建築遺構の一つである。

 閑話休題、江戸城で意外なことがもう一つある。城と言えば、そのシンボルは何と言っても天守閣である。幕末ともなれば写真も普及し、一つや二つの江戸城の天守閣の写真があってもおかしくないが、江戸城の天守閣の写真や絵は存在しない。実は、江戸城の天守閣は1657年明暦の大火で焼失し、以後幕末を迎える1868年までの約2百10年まで再建されることはなかったのである。当然、天守閣の再建は検討されたが、三代将軍家光の異母兄弟、名君初代会津藩主保科正之が大火後の江戸の町の復興を優先し、天守閣を再建することを止めさせたと言われている。二条城も、五層の天守閣を伏見城から移築していたが、1750年落雷により焼失、以後再建されていない。

エレベータもない時代に、天守閣は建物としての価値は展望台くらいの役目しかなく、大阪城も夏の陣で天守閣も砲弾を撃ち込まれて炎上するなど全く戦術的にも価値がなかったことが認識されていたのではと思われる。二条城は、1623年三代将軍の上洛以後、幕末に14代家茂が上洛するまで将軍が使用することはなく、カネもかかる天守閣はもちろん再建するわけもなかったが、公家や皇族は毎日御所を睥睨するように聳え立つ二条城天守閣を仰ぎみて、幕府権力の強大さに内実おそれおののいてきたであろう。徳川幕府の権勢は、家光の時代が最大であり、このころに二条城天守閣が完成している。そして、日光東照宮造営を機に財政はひっ迫し始め、戦術的に価値のない天守閣は焼失しても再建されことはなくなったと思われる。

 

いちゃもんをつけるわけではないが、テレビ番組「暴れん坊将軍」のエンディングで江戸城の天守閣として姫路城の天守閣を使っているが、将軍綱吉が征夷大将軍に補任されたのは1680年であり、その時には江戸城天守閣はすでになかったはずである。所詮娯楽番組ドラマで、時代考証等をとやかく言う必要ないのかもしれないが、あの番組で江戸城の天守閣が気になったことは否めない。

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2014年

8月

01日

城西国際大学留学生のホームステイ

韓国の建陽大学校(大学)・創意融合大学(学部)から城西国際大学に短期留学している4人の留学生を会員の皆様が家族の一員として7月18日()から20日(日)までの間、2泊3日のショートホームステイを受け入れました。これは、ホームステイを通して国際交流の芽を育み、ホストファミリーである会員家族と新鮮な驚きや感動を分かち合いながら、生活環境、習慣、言葉の違いを乗り越え、生きた日本語や日本の文化を学んでいただくことを目的としております。2泊3日という大変短い期間でしたが会員家族の皆様も貴重な経験をされたと思いますので、ここにホームステイを受け入れた会員家族のホストファミリー体験記を紹介いたします。

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2014年

5月

24日

第21回 大網白里市国際交流協会総会開催


524日(土)新装された大網白里市公民館にて、平成26年度の当協会総会が開催されました。総会には、来賓として、古山正洋副市長、一色忠彦市会議員、小高實教育長、塚瀬一夫東金国際交流協会会長、林千賀城西国際大学留学生センター長、織本慶一生涯学習課長、安川一省総務課副課長、二人のALT(外国語指導助手)、近郊在住フィリピン人グループの代表、奥津Bernarditaさん、Grace Zapataさん、合わせて総勢11人のご臨席を得て、盛大な総会となりました。

 

小川会長の開会の挨拶に続き、古山副市長が金坂昌典市長の代理として祝辞を述べられ、続いて一色議員が花澤房義議長の祝辞を代読された後、小川会長が議長となり、議事の審議に入りました。

 

当日の議事は7項目ありましたが、議案第1号 平成25年度事業報告、第2号 平成25年度収支決算報告、第3号 平成25年度会計監査報告、第4号 平成26年度事業計画案、第5号 平成26年度収支予算案、第6号 規約の改正 が承認された後、第7号議案 役員の改選にて、小川会長が勇退を発表され、新理事候補15名と新監事2名を紹介されて、出席会員(47名)の承認を得ました。

 

その後、新理事と新監事は別室にて役員の互選を行い、新たに会長に田村隆文氏、副会長に山田繁子氏、伊東正人氏、古内早苗氏、専務理事に橋本聡二氏、監事に小林正和氏と秋葉輝代氏を選出したことを報告し、総会の全議事を無事終了しました。

 

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2014年

2月

16日

第二回 国際食文化交流会 開催

 216日(日)第二回国際食文化交流会が、大網白里市農村環境改善センター(いずみの里)で開催されました。

 外国料理を提供して頂いた参加者の方々は、横芝から駆けつけブータン料理の指導をして頂いたブータン写真家の 関健作さん、奥津Bernaditaさんの呼びかけに応え参集してくれた茂原、東金、白子、市原、船橋等に在住のフィリピン人女性グループとそのお子達10数名、米国滞在40数年の後に帰国し市内に在住されている今なお米国市民の平井ご夫妻、そして城西国際大学に留学中の中国人女子留学生呂婷婷さん、他2人と多彩でした。

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2013年

11月

03日

ドイツ・オーストリア音楽の旅

平成25年度 海外視察事業 村中正子 理事(交流委員会 副委員長)

大網白里市国際交流協会 海外視察研修
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2013年

10月

12日

城西国際大学留学生交流会

 平成251012日(土)城西国際大学東金キャンパスにおいて、恒例の同大学留学生との交流会が開催されました。大学のお計らいにより図書館に併設されたオリエンテーションルームにて開会式のセレモニー、基調講演、そして留学生による日本語スピーチ大会を行い、その後、職員食堂に場所を移して懇親会を実施しました。

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