葵は枯れる、菊は咲く

知られざる大網白里市の郷土史異聞 川路聖謨妻高子の上総疎開

幕末異聞  

   大網白里市国際交流協会

   元副会長 中國健二郎

 

当地、大網白里はのどかな太平洋に面した人心も穏やかな農村地帯で、江戸時代は幕府や旗本の知行地がほとんどで、近くに大藩もなく、歴史的に中原に覇を争うような舞台となったこともなく、泰平に安眠を貪ってきた土地柄である。しかし、風雲急を告げる幕末末期、維新回天の騒乱の余波を受けて大網白里市にもささやかながら土地にまつわるこの地の人口に膾炙(かいしゃ)されることのないであろうエピソードを紹介したい。

 幕末期の錚錚英傑の一人川路 聖謨(としあきら)の妻高子が江戸城総攻撃を避けて上総の国山辺郡平沢村に疎開していたというのである。

川路聖謨は、佐倉藩主だった老中堀田正睦と日米修好通商条約の勅許を求めて上京し、また、ロシアのプチャーチンと日露通好条約の交渉を粘り強く行い締結させた外交官でもあった。

鳥羽伏見の戦いが始まると、緒戦から旧幕府軍は敗走し,上野寛永寺に将軍慶喜が謹慎しているにもかかわらず、官軍は慶喜追討に東海道、東山道(中山道、甲州街道)から江戸に攻め上ってきた。川路聖謨は、官軍江戸総攻撃の予定日を315日(慶応四年)と知り、妻子を次男の養子先である旗本原田市三郎の知行地である平沢村(大網白里市小中)の名主利右衛門の邸宅に疎開させた。聖謨は、徳川幕府終焉に殉じて315日に割腹し、病気で体が不自由であったためピストルで自決している。妻の高子も夫に畏敬の念を持っており、自分も後追いしたかったようであるが、川路家と幼い継子二人の養育を考え、短慮を慎み、気丈に夫の葬儀を済ませ、初七日に「末代まで操を守る」という決意を込めて「松操」と号して落飾した上で322日に平沢村に向けて出発した。

 当時の川路家の知行地は、秩父にあり、遠く行程が険しい上に、甲州街道と中山道に挟まれ官軍との接触の可能性から上総平沢村を選んだと思われる。余談だが、幕末きっての英傑日本近代化の父ともいえる小栗上野介は群馬県権田村の自分の領地に疎開帰農のため一家で移住したが、長男、家臣3名とともに烏川河原で官軍に取り調べもなく無残に斬首されている。

 平沢村(現小中)に疎開した高子は、約3か月小中で過ごし、徳川家存続と、江戸無血開城を知り江戸に帰った。その後17年生き、明治17年に胃がんにより死亡。教養ある武家の女性として、次のような辞世を残している。

 「いと長く思いしかども限りあるわが世の夢も今ぞさめぬる」

なお、 川路聖謨の辞世

 「天津神に背くもよかり蕨つみ飢えにし人の昔思えは」

蕨つみ飢えにし人とは古代殷、周の交代期、天道の是非を貫いた伯夷・淑斉兄弟の故事を暗喩して徳川幕府への恩義と忠節を迸(ほとばし)らせている。