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皇居二重橋(試験投稿)

皇居移動研修
皇居移動研修

左の写真は皇居の定番アングルである。誰でも一度は見たことがあるか、あるいは実際に見たことがあるはずの風景である。

ところで、あなたは二重橋を見たことがあるでしょうか?私は、写真の“眼鏡橋”のような橋が二重橋とばかり思い込んでいた。言い訳するわけではないが、“ステレオタイプの物の見方”でなく、明らかな誤謬である。この年になるまで、写真の2連の橋を「二重橋」とばかり思い込んで生きてきたことになる、実に浅薄を恥じ入る思いである。じつは、この橋は「正門石橋」と言い、この橋の奥にある「正門鉄橋」と呼ばれる橋が通称「二重橋」と呼ばれる橋であるという。私は、皇居を参観して初めてそのことを知ったのである。毎年、何万と訪れる皇居参賀に訪れる人は、この二連石橋とその奥の「二重橋」を渡り、宮殿に向かうのである。因みに、写真の櫓は伏見櫓と言い、京の伏見城から移築されたもので、江戸城の面影を想像できる数少ない建築遺構の一つである。

 閑話休題、江戸城で意外なことがもう一つある。城と言えば、そのシンボルは何と言っても天守閣である。幕末ともなれば写真も普及し、一つや二つの江戸城の天守閣の写真があってもおかしくないが、江戸城の天守閣の写真や絵は存在しない。実は、江戸城の天守閣は1657年明暦の大火で焼失し、以後幕末を迎える1868年までの約2百10年まで再建されることはなかったのである。当然、天守閣の再建は検討されたが、三代将軍家光の異母兄弟、名君初代会津藩主保科正之が大火後の江戸の町の復興を優先し、天守閣を再建することを止めさせたと言われている。二条城も、五層の天守閣を伏見城から移築していたが、1750年落雷により焼失、以後再建されていない。

エレベータもない時代に、天守閣は建物としての価値は展望台くらいの役目しかなく、大阪城も夏の陣で天守閣も砲弾を撃ち込まれて炎上するなど全く戦術的にも価値がなかったことが認識されていたのではと思われる。二条城は、1623年三代将軍の上洛以後、幕末に14代家茂が上洛するまで将軍が使用することはなく、カネもかかる天守閣はもちろん再建するわけもなかったが、公家や皇族は毎日御所を睥睨するように聳え立つ二条城天守閣を仰ぎみて、幕府権力の強大さに内実おそれおののいてきたであろう。徳川幕府の権勢は、家光の時代が最大であり、このころに二条城天守閣が完成している。そして、日光東照宮造営を機に財政はひっ迫し始め、戦術的に価値のない天守閣は焼失しても再建されことはなくなったと思われる。

 

いちゃもんをつけるわけではないが、テレビ番組「暴れん坊将軍」のエンディングで江戸城の天守閣として姫路城の天守閣を使っているが、将軍綱吉が征夷大将軍に補任されたのは1680年であり、その時には江戸城天守閣はすでになかったはずである。所詮娯楽番組ドラマで、時代考証等をとやかく言う必要ないのかもしれないが、あの番組で江戸城の天守閣が気になったことは否めない。